IFLAと私

 株式会社東京ランドスケープ研究所 代表取締役副社長

小林 新

1.1981年バンクーバー大会

32年前、私が高校生(16歳)の時のこと。父に「カナダに行くから、お前も連れて行ってやる」と言われ、海外旅行だ!と喜びいさんでついていった。行った先は、バンクーバーにあるブリティッシュ・コロンビア大学。第19回IFLA World Congressの会場である。

手元にあるIFLA Year Bookによると、1981年6月27日から28日にGrand Councilの開催。29日から31日は、世界中から350名以上のランドスケープアーキテクトがWorld Congressに集い、Frontier Landscapeについて議論がされたとある。私の父、小林治人も発言者の一人として壇上にあがり、「都市における居住とフロンテイアについて」東京の事例を中心に話をした(造園雑誌第45巻第2号)。英語で発表する父にビデオカメラを向けて一生懸命撮影したことを覚えている。高校生の私にとっては、様々な国から、実に多くの方々が一堂に会し、(様々に聞こえる)英語でコミュニケーションをとっている姿をみて、「世界」というものを初めて感じた時であった。また、外国で勉強してみたいな、と少し思った時でもある。

バンクーバー滞在中、当時バンクーバーに在住の日本人ランドスケープアーキテクト、ハラダ氏が我々をいろいろなところに案内してくださった。その道中、異国の習慣と人々に馴染みながら、かつ、日本人としての誇りをしっかりと持って仕事をし、生活をするとはどういうことか、その心構えについて、若い私に何度も説いてくれた。一人の市民でありながら、日本という国を背負うということはこういうことなのかと、感銘をうけた。このことは、おそらく今の私の体と心に今も沁みついている(はずである)。「日本」とか「国を背負う」ということをはじめて実感した時であった。

IFLAでの会議の模様は、残念ながら何も覚えていない。ただ、今も我が国造園界の重鎮(当時は中堅?)が、バンクーバーでの夜、宿泊ホテルの部屋で、高校生の私にブラディマリーの作り方を教えてくれた、楽しい思い出しか残っていない(注:高校生の私はアルコール抜きの「ブラディマリー」を飲んでました!)。

1990年に私は大学を卒業してカリフォルニア州アーバイン市にあるランドスケーププランニング&デザインのPERIDIANという会社に勤務しはじめた。この頃、父はIFLAの第一副会長を務めていた。

1991年に行われた第28回IFLAコロンビア大会は、父が通訳とともに参加するはずが、当時政情不安定の中、通訳の参加がかなわなかった。そこで、父から、「しょうがないから(アメリカに住んでいるのだから英語が少しはしゃべれるはずの)お前が手伝え」とつれていかれたのが、私の2回目のIFLA体験であった。26歳の時である。

「公式報告」は、8月11日から12日に行われたExecutive Committeeの様子を「造園雑誌55(2)1991年」に記した。

ここでは、筆者の当時のメモ帳に書かれていることを「裏話」として紹介する。内容的には公式の議事録とは異なることもあるかもしれないが、約四半世紀前の出来事であり、また、当時かわいがっていただいたTed Osmundson氏、Zvi Miller氏などの大先輩方も故人となられたので筆者なりの追悼の念をこめて、記事にした。事実誤認などあれば、ご指摘いただきたい。

 

2.1991年コロンビア大会

左から筆者・武内先生・小林治人氏・川嶋氏
左から筆者・武内先生・小林治人氏・川嶋氏

IFLA第一副会長であった小林治人一行は、成田発ロスアンゼルス経由で1991年8月11日の朝7時30分頃にボゴタに到着し、8時30分にホテルにチェックインした。長旅の疲れを癒す時間もなく、早速9時からExecutive Committeeが始まった。あいさつもそこそこに、前回のベルゲン大会の総括等、真剣な議事に本格的に突入した。その次の議題はいきなり人事の生々しい話し。Ted会長と事務総長のWalter Mrass氏の役目が混乱しやすいのではないかという議論。「現事務総長以外の人間にイニシアティブを握らせてはどうか?」など。なぜこんな話になるのか?この発言の背景は、Ted会長の存在感よりも、他にとても目立ちすぎている人物がいる。その人物が事務総長に強い影響を与えている。こういうことは望ましくない、といった議論であった。

Ted会長と握手
Ted会長と握手

この時、深い事情を理解していない状態でアシスタントを務めていた筆者も、数時間後にはその目立ちすぎている人物こそが前IFLA会長のZvi Miller氏であるということを理解するのである。この議論が、アメリカ・カナダ・オーストラリア・イギリス・日本等を中心とした、Ted Osmundson会長を旗印とする勢力と、いくつもの開発途上国から投票の際の委任権をたくさんとりつけたZvi Miller氏の勢力の「仁義なき戦い」の始まりであることは、筆者はまだこの時点では気づいていなかった。ASLAという会員数を豊富に有する組織を母体とするアメリカは、IFLAへの会費も相応の額を納めている。一方、資金的には裕福ではないZvi氏グループは強力にIFLAの主導権を握ろうとする。いわゆる「権力闘争」の渦中にあるのがコロンビア大会におけるExecutive Committeeであり、Ground Councilなのであった。当時26歳の社会経験の浅い筆者が、このような時間、場所を共有させていただけた経験は財産である。また、国際的な反映と各国の利害の一致のための調整・衝突・妥協・決裂など、一連のプロセスを目にできたことは本当に勉強になったとともに、そうしたシビアな情勢の中で、一生懸命「小間使い」している若者を各国の先輩達が「可愛がって」くださり、ありがたいことであった。

George氏と立ち話
George氏と立ち話

8月11日から12日にかけて、Executive Committeeで様々な議論の記録が手元に残っているが、印象に残った発言ややりとりを紹介する。繰り返すが、内容はあくまでも筆者のメモに基づく。

Ted Osmundson会長:現在地球環境問題が深刻化している。環境問題に関心を有する人々を包括するような体制をつくれないか。そのためにはどのようにアプローチしていくべきか。環境問題に関連するあらゆる人を含んだIFLAにしていきたい。その中で、ランドスケープアーキテクトの役割は、環境保全である。

George Anagnostopoulos副会長(Central Region):すべてのランドスケープアーキテクトにとって環境問題は重要である。しかし、生物学者等にはトータルな環境問題はわからない。我々こそがトータルなプランニングができるのである。IFLAの環境問題についてのポリシーを明確にしたい。

Martha Fajardo副会長(Western Region):コーヒー栽培の人が、「ランドスケープアーキテクトの仕事は、私たちの仕事に影響を与える」といった。これは、ランドスケープアーキテクトの仕事(図面を描くこと)が経済にも影響を与えるという意味であることをしっかり認識すべきである。

盛り上がった話題の一つ:「我々ランドスケープアーキテクトは、環境問題に対して何ができるのか?」。環境問題に対するランドスケープアーキテクトにとっての明確な成果品は何か(Ted)。生物学者などに我々ができることはコレコレですよと働きかけることがスタートなのではないか(George)。

 

とにかく一日中メモを取る!
とにかく一日中メモを取る!

しかし、「ガーデンからフィールドへ発想の転換が必要ではないか」といった抽象論や「草は空気をきれいにする」といった極めて基本的な話なども多く、環境問題解決に貢献しようと大いなる夢を有していた26歳の若者には、なんだかものたりない議論に感じた。結局「この問題は、環境問題の専門家を含めてまた進めましょう」ということが結論であった。

この時、小林治人第一副会長は、IFLAの再構築に力を注いでいた。その大黒柱ともいうべきビジョンであるLong Range Planの作成に向けて、小林治人が、これに先立ち各委員長に対して実施したアンケート調査について、回答すらしない委員会の委員長がいたことを問題視した。こうした委員長は、IFLA会長との連携も薄いと判断せざるを得ないので、こうした者は解任した方が良いのではないか、と提案した。背景にあるのは、「Ted派」「Zvi派」の対立であったと、後日知った。こんな時に、「アンケートに回答していない者のうち、別の提案書を提出するなどして委員長としての責任を果たしている者もいる」とGeorge氏が発言するのである。対立する事案についての落としどころにいたる過程にはGeroge氏の調整能力の高さがあった。その後、あらゆる意見対立の局面において、筆者はGeorge氏の発言に注意を向けたものである。

 

Ground Councilの事務局もサポート
Ground Councilの事務局もサポート

学生コンペをめぐる議論も面白かった。

Martha氏が学生コンペの一等賞金3000ドルは、もしかすると日本の(裕福な)学生にとっては多い額ではないかもしれないが、開発途上国の学生にとっては大金であると話題にした。

George氏が、学生コンペはもっと世界の学生たちに知ってもらい、多くの学生に参加してもらうためには、建築系の学生にももっと広めていってはどうか、と発言した。

なるほどいい意見だなと思ったら、Ted会長は「(建築系の学生に広げるのは)絶対にダメだ(Absolutely No)」と。理由は「我々はランドスケープアーキテクトである」からだと。プロフェッションを確立するということと、多様性を求めるということ、いろいろな考えがあるのだとは思ったが、個人的には建築の学生であろうと誰であろうと、ランドスケープの世界に挑戦してもらうことは良いことのはずなのに、と若者は思った。

この後、8月13日からGround Council、8月17日からWorld Congressが行われた(会場はカルタヘナ)。政情不安定のため日本から通訳が来てくれなかったのだが、現地ではまったく危ない思いはしなかった。「政情不安定を理由に仕事に来ないなんて、だらしない人もいるな」などと正直思った。しかし、帰国後数週間後、日本企業の現地法人の方が誘拐されるという事件があり、「平和」と「現実」のはざまを感じた。

 

3.1992年韓国大会

バンクーバー大会はほとんど何もわからず、コロンビア大会ではどちらかといえば「勉強をさせていただいた」私であるが、1992年の第29回韓国大会は、少しはお役にたてたかなと悦に入った思い出をもっている。

Executive CommitteeとGround Councilの合計4日間、第一副会長のアシスタントとして、各国代表との交渉事を手伝わせていただいた。この4日間は、朝8時頃の朝食時、午前の会議、会議中の休憩時間、昼食、午後の会議、夕方のティータイム、夜会議が終わった後の「一杯やりながら」の23時過ぎまで、ずっとホテルの会議室・レストラン・喫茶室・廊下等で会議かロビイングである。ホテルから一歩も外にでる暇はない。

この時は、前年のコロンビア大会で顔をうっていたので、アメリカのRobert Mortensen氏、カナダのPeter Jacobs氏、イギリスのBrian Clouston氏、Hal Moggridge氏オーストラリアのIan Oelrichs氏、ドイツのArno Schmid氏などと人間関係もできており、公の席では第一副会長の黒子として議論の円滑化に貢献できたと思う。また、非公式な会合では、上述の大先輩たちが、IFLAの懸案事項について、「日本の若者の意見は?」などと筆者にも水を向けてくれたことが多々あった。各種調整ごとに神経をすり減らしている時に、自分の意見を(世界に対して)言わせていただく時が、脳にとって一服の清涼剤になった。とにかく、英語と日本語の変換作業をしながら、飲み物や氷の準備などをしたり、記録をとったりと、これを一日15時間以上、4日間つづけたのである。さすがによい訓練になった。(実は、韓国に向かう前日に、白髪を全部抜いたのだが、5日目に帰宅し鏡をみたら、髪にかなりの本数の白髪が混じっていた。矢吹丈がホセメンドーサに負けた後、一気に白髪になるのは本当なのかもれ知れないと納得したものである)。

Executive CommitteeとGround Councilの完全なる黒子に徹した筆者は、World Congressの開会式が始まった時、お役御免となった。世界各国から集まったランドスケープアーキテクトを歓迎する韓国大統領のビデオによるあいさつがはじまった時、会場をあとにして帰路の空港に向かった。黒子としての醍醐味だと、「悦に入った」気分を満喫して私の韓国大会は終わった。

 

4.その後

韓国大会以降、第一副会長のアシスタントとしてReorganizationの検討等のために世界の先輩方とやりとりすることが多々あった。また、2000年の淡路園芸博でも人脈を活かして手伝いをさせていただいた。そうした中、Mortensen氏からはゴルフを教わり、Shmid氏は私のセカンドキャリアについて相談にのってくださり、Jacobs氏は「君にその気があれば、弟子にしてやるよ、ただしフランス語ができればね」と言ってくれたり(実はこれは私の英語が下手くそなことを(親しみこめて)からかっているのだが)、本当にありがたい先輩方に可愛がっていただいた。特に、「都市公園と費用対効果」「緑地の管理運営方法」「合意形成技術」等の重要性について熱く語る私に対し、Brian Clouston氏らから、「図面を上手に描くランドスケープアーキテクトは大勢いるが、君のような視点を持つランドスケープアーキテクトが少ない。君こそランドスケープアーキテクトだ」などとおだてられたのが、今でも私の原動力になっている。

IFLAが縁で2000年の淡路園芸博も手伝い。写真はDon Baron氏から「アメリカンジョーク」を習っているところ
IFLAが縁で2000年の淡路園芸博も手伝い。写真はDon Baron氏から「アメリカンジョーク」を習っているところ

こうして振り返ってみると、筆者は「まだ(?)」48歳という年齢にもかかわらず、IFLAと出会ってすでに32年経過している。IFLAを通じて経験したことが今の仕事に活きていることは間違いない。48歳は働き盛り。IFLAがランドスケープアーキテクトという職能を代表する組織である限り、IFLAに育てていただいた私は、これまで以上に世界に貢献し、将来あの世に行った時に、笑顔でTed氏とZvi氏に迎えられたいものである。

小林 新 Kobayashi Shin

1990年千葉大学園芸学部環境緑地学科卒業、1996年米国加州立工芸大学ポモナ校環境デザイン学部ランドスケープアーキテクチャー修士課程修了(Ecosystematic Design論)。1990年~1993年 米国のランドスケープデザイン&プランニング会社PERIDIAN他勤務、1996年~株式会社東京ランドスケープ研究所他勤務。現在、日本大学生産工学部非常勤講師。