IFLAとHARUTO

株式会社東京ランドスケープ研究所 

小林治人

■IFLAが開いた職能組織

 IFLAと私の関係は、1964年、第九回IFLA世界大会が東京・京都を中心に開催された時に始まる。日本のLandscape Architecture(LA)界にも設計を専業とする事務所が芽生えていることを世界の仲間に理解してもらうため、池原健一郎、伊藤邦衛、林茂也の3氏を幹事として、荒木芳邦、飯田十基、井上卓之、小形研三、小林治人、島田昭治、関田次男、田辺員人、中島健、中村善一、西川友孝、吉村巌の15名(1964年3月名簿)が「造園設計事務所連合」(Landscape Architects office in Japan)を結成し、私も参加させていただいた。

 このような経緯があって私は、IFLA活動を通じて比較的グローバルな立場からLandscape Architecture(LA)という職能について考え、各種のプロジェクトを担当しながら世界の仲間によって組織されているIFLAのことに強い関心を寄せるようになった。

 

■IFLA活動へ参加

 しかし、私がIFLA活動に直接参加したのは、1981年7月カナダバンクーバーのUBC(University of British Columbia)を中心に開催された第19回IFLA世界大会(World Congress)への参加からである。

 バンクーバー大会のテーマであった「フロンティアランドスケープ」の趣旨に沿って、「都市における居住とフロンティア」と題して、東京のフロンティア事例を中心にアニメーションフィルムを使用しながら将来の展望について紹介した。(造園雑誌第45巻第2号38~53、1981参照)

 この発表をきっかけに、多くの著名な世界のLAとお会いすることができその後も、世界各地でお目にかかることとなり、お互いの出会いを毎年楽しみとするようになった。すでに故人となった仲間も多くなりさみしさが募るが、未だメールなどで交流できる仲間も多数いるのは大変楽しみであり、私の人生の中で大変貴重な心の糧となっている。

 このバンクーバー大会時には、IFLA世界大会を日本で1985年に開催することについて造園学会を中心に検討していることを表明し、日本におけるWorld Congress開催意欲の強いことをアピールすることが基本的目標であった。

左:アジア地区代表と北村信正先生

右:小形研三先生とテッド・オズマンソン

 


 当時、IFLA国際会議運営ガイドラインでは、少なくとも3年前に開催国を確定することとなっていた。私はIFLA会議運営分科会の委員となって、日本での開催を北村信正先生のもとで提言した。その結果、翌年の9月オーストラリアで開催された第20回世界大会で、1985年第23回世界大会を日本で開催することが決定された。この結果を受けて日本造園学会は準備委員会を設立して準備に入った。

   

■IFLAとその目標

 IFLAは、1935年(昭和10年)ブラッセルにおいて初めて、各国の代表的な人が集まり国際的な職能組織を結成することが期待されたにもかかわらず、大戦によって挫折した。

 大戦後の1948年(昭和23年)9月ケンブリッジにおいて第一回世界大会が開催されIFLAは正式に発足した。この時の加盟国はヨーロッパの先進的国家に限られ、北村信正先生の記録では、イギリス(ジェリコ、シルビア・クロー、コルビン)、ベルギー(ペシェーレ)、デンマーク(ハンセン)、スペイン(キャロル)、イタリー(ボルチナイ)、オランダ(ダニエルズ)、スイス(レーダー)、スウェーデン(フローム)などが創立メンバーであった。結成後数年でアメリカ、カナダ、オーストリア、ブラジル、アルゼンチン、西ドイツが参加し日本は1954年(昭和29年)ウイーン大会において正式に加入が承認された。この時は、佐藤昌先生が参加された。当時を振り返り佐藤先生は「当時はとにかく遠い日本からよく来たということで歓迎を受けた。珍しがられた面もあった・・・。」と語っておられた。先生が羽田を出発される時、多くの造園人が見送りに駆けつけたという。佐藤先生は当時はやりの黒縁の丸いメガネをかけて羽田空港を出発された時の写真を拝見したことがある。

 IFLAは、世界各国の学会、協会など国を代表する組織を窓口として一国一組織を持って会員として組織されている。

 1964年(昭和39年)日本大会の時には会員加盟国20、個人会員加盟国7か国であったが、1987年前後には会員加盟国44か国、個人会員加盟国18か国、計62か国となり、約2万人余のLAが参加している組織としてユネスコ傘下のNGOとして位置づけされ、1987年9月より、Category-A*となった(*UNESCOとNPOの関係は1996年のUNESCO Directiveではカテゴリーは、第一から第三カテゴリーまであり、その中でテゴリーAは、Consultive and associate relations)である。(*1995年版UNESCO Directiveでは、UNESCOとNPOの関係はA、B、CからFAR(Formal AssociateRelations),FCR(Formal Consultive Relations),OR(Operatonal Relations)に変更されており、その区分の中でIFLAは、FCRである(*:井上忠佳)。

 この当時、IFLAの目標とするところは下記のとおりであった。

① LAの職能を幅広い社会の支持が得られる方向に導くことによって、その重

  要性を訴える。

② 一般の人に理解しやすいようにLAの定義・概念を整理しておく。

③ LAの役割を明確化し、さらに地位向上に役立つ活動をする。そのことを通

    して次世代の人たちに魅力ある職能であることを理解させる。

④ IFLAの活動は、世界の動きと連動したものでなければならない。そのために

    は専門家だけでなく一般の人々に理解されるよう関係の深い国際機関、 

    IUCN,UNESCO,FAOなどの協力を強化する。

⑤ LA教育を世界的規模で普及させる。特に教育体制整備が急がれるのは、ラ

     テンアメリカ、東南アジア、アフリカの3地域である。

 

■第一副会長に就任して課せられた課題

 1981年以降私は毎年IFLA世界大会に参加するうち、いくつかの委員会に出席し多くの仲間ができた。1985年日本で開催した第23回世界大会の大成功もあって、IFLAの仲間との交流が盛んとなり、いつの間にか第一副会長候補に推薦される立場にあった。

 パリ大会Executive Committiee(EC)とGeneral Congress(GC)において、IFLA会員による選挙の結果、私が第一副会長として選任されたことが正式に伝えられた。第一副会長の役割は会長の補佐をすると共に、IFLA憲章の定めを忠実に実行するために参加国の先頭に立つこととなった。

左:パリ大会開会式で挨拶する著者

右:右から3人目、メッセーニ会長


 1987年9月4日IFLAパリ大会直後、IFLA ECが招集された。この時の参加メンバーは、ミハエル・メッセーニ会長、ツビー・ミラー前会長、第一副会長小林治人、ジョオージ・アナグトポーラス/セントラル地区担当副会長、マーサ・ファジャルド/ウエスターン地区担当副会長、フランツ・フォーゲル会計長であった。イイデフォンソ・サントス/イースタン地区副会長は欠席であった。

左からアナグノストポーラス副会長、ファジャルド副会長、サントス副会長、筆者

 会議に先立ち、メッセーニ会長から第一副会長に就任した結果を受けて、IFLAに対する抱負を述べるよう私に指示があった。

 私は下記のような内容を述べた。

① IFLAは組織づくりの段階から、しっかりしたIFLAの理念と目標を掲げて内 

  容的に充実させる段階にあると認識している。

② これからのIFLAは、知性・創造性・センスを仲間とともに高め魅力のある

  国際組織にすることを目指す。

③1と2がはっきり具体的に示されれば、世界各国からもっと多くの仲間が

  IFLAに加盟し、財政的な支持も得られるようになると考える。

④ 会員へのサービス向上のため事務局を強化する。

と以上4点を力説した。

 

  各地区を代表する副会長からは、セントラル地区:IFLAの組織論とかポリシー論があるが、何より優先すべきは身近で現実的な問題解決をしなければならない。会計長:セントラル地区には、アフリカが含まれる。アフリカは金がない。南ヨーロッパも同じである。このような地域への財政援助が大切である。ウエスタン地区:中南米地区は造園教育がまだ徹底していない。本などの量も少ない。

 【ミラー前会長】IFLAは今あまり良い状態ではない。新しい執行部が力を合わせてやっていくことが大切。会の運営は実質的で安定していなければならない。事務局はGCの決定事項を忠実に実施するのが仕事なんだから、その能力を備えなければならない。それぞれの副会長が将来の目標をはっきりさせ、任期中にとらわれずしっかりやってほしい。

 【メッセーニ会長】第一副会長は指導力を発揮して1990年代の計画を副会長と相談してまとめてほしい。2週間以内に書いて副会長達の考えを知らせてほしい。次年度は財政の話ばかりでなく全体のポリシーについて密度を高めてほしい。(注:ミラー前会長が毎回財政問題の話ばかりで時間が過ぎたことへの反論と受け止められる)

 第一副会長は各地区の副会長をしっかり統括するとともに、国際委員会の運営管理、IFLA大会におけるアジェンダを作成して会長に報告すること。などであったが、以下のような活動を行った。

 

1:1990年代のIFLA活動のあり方を、「IFLA90年代戦略構想」として策定し、1988年ボストン大会EC、GCにおいて報告をした。

 

IFLA90年代戦略構想の要点:

【LANDSCAPE ARCHITECTUREの定義】

「人と自然の関係を、芸術的・科学的に究明して、両者の関係を総合的に調和ある空間として、保全・創造することを目的とする専門分野である。」注:Landscape Architectureの用語は1863年5月12日から公式に使用された。

 

【IFLAの焦点】

LAの専門的レベルを高め、国際機関としてのステータスをより向上させ、効率よくさせる。

 

【基本的政策】

① 主として、生物圏におけるリサーチ、トレーニング国際交流プログラムを 

  含むLA教育の普及促進を通じてLAの領域強化拡大を図る。

  a:発展途上国のLAの教育促進のための援助を行う。

  b:メンバーシップ業務の質を向上させ他の国際機関との交流を通じて各種

   の経験など交換できるような技術会議などを企画し実施する。

  c:他の国際機関との合同プロジェクトを促進させ、専門的知識や経験を交

   換し合う。

② LAの職能を通じて社会的使命を果たすための活動をする。

     a:IFLA会員相互の経験や意見交換のため地域会議の開催を活発に行うとと

          もに、刊行物の発行を行う。

       b:LAという仕事の重要性を広く社会に啓蒙するための活動をする。

③ IFLAの組織・体制を強化して、メンバー相互の交流と、専門的知識の交換を

    盛んにする。

       a:IFLAの体制を強化する。

       b:IFLA戦略構想実現のため財政的強化を図る。

 

2:IFLA国際委員会座長として、その活動をより活発にするための施策を実行するために直ちに国際委員会委員長に、委員会の構成、事業計画の内容、予算委員会開催状況などアンケートを行った(アンケートの締め切りを10月31日として時間を短くした)。

 その結果、多くの委員会は同一人によって各種兼務されている例が多い。委員長は2~6年くらいで交代しないといけない。

 まったく活動していない委員会は整理して、6~10くらいにする。これらの傾向がわかったので総チェックをすることとした。

 

3:その他、国際機関としてのIFLAの存在を広く社会に普及啓蒙することを通じて、LA職能の重要性を社会に知らしめながら、地球環境保全に貢献する活動をすること、などが主なものであった。

 これらの課題について、私の第一副会長就任中の4年間(パリ大会からコロンビア大会まで)の活動成果は次のような内容である。

 課題①については1990年代IFLA戦略計画として、ボストン大会におけるECで発表し承認された。

 


左:メッセーニ会長に続いて開会式へ

中:マニラ市長右と中央サントスIFLA副会長

右:アキノ大統領会見後の記念植樹・リサールパーク

 

■第六章 IFLA長期構想

 1989年マニラ大会においては、この計画を更に具体化させるために、IFLA長期構想(IFLA Long Range Plan)としてまとめることとなり、Task Force Co mmittee(TFC)が組織された。この委員長を任命された私はTFCメンバーの考えを取りまとめ案を策定しコロンビア大会でIFLA会長に報告し、GCにおいて発表した。(右写真はマニラ大会でのスピーチ) 

 

■各地でワークショップ

 IFLA国際委員会委員長会議については、マニラ大会において会長がテーマごとに新しい委員長を選任した後だったので、これら新しい委員長に対し、委員会の構成、事業計画、活動資金、活動の成果、その他についてアンケートを行った。

 18委員会の内、11の委員会から回答が寄せられたが、各委員長の立場は、テーマごとに設置された各委員会を指導していく責務を負わされているにもかかわらず、委員会活動費、委員会構成面でのあいまいさ、委員としての責任感の弱さなどが感じられ、今後リーダーの認識開発なども含めて、継続的に検討しなければならない課題であると痛感した。このように私は委員長会議の意見交換を通して、世界の仲間の考えなど状況の把握に努めた。

 日本国内向けには、IFLAの存在を関係機関などにPRするため、日本国内で次のようなイベントを実施した。

 1988年3月19日~26日、IFLA・EC非公式会議、3回にわたる国際シンポジュームなどを開催した。 

大町市長による招宴:浴衣パーテイ

IFLAエクゼクテイブメンバーと

JILAによる国際シンポジューム in 大町

 この成果については1988年ボストン大会に冊子(Resort and Landscape For the 21st Century)にし各国代表に配布した.

左:日本で開催した国際シンポジュームの報告書一部

右:コロンビア大会学生コンペ審査


 1990年5月25日、大阪で開催された「国際花と緑の博覧会」のイフラ・デーでは、私はメッセーニ会長代理としてイフラ・デー公式セレモニーに参加した。この時USAのテッド・オズマンソンIFLA次期会長も参加した。

 


左:「国際花と緑の博覧会」イフラデー公式セレモニープログラム

中:「国際花と緑の博覧会」イフラデー公式セレモニーにおけるIFLA

右:式典後会場を後にする(中央 筆者 後方オズマンソンIFLA次期会長)

 

■IFLAの紹介

 この機会をIFLAにとってより有効にするために東京、多摩NT、大阪花博会場、北九州などでも国際シンポジュームを開催した。この時はTFCのメンバーが中心となり、関係団体その他学識経験者が多数参加し、それぞれの地域において大変盛況であった。

 この大阪花博会場内には、スポットガーデンエリアが設定されていて、IFLAのモニュメントとして「蕾」(石井鬼十作)が展示され博覧会後も常設されている。

 

左:IFLAモニュメント

右:IFLAの仲間と記念写真


■世界のLA認識

 1990年6月6日から8日にかけて、ハノーバー大学で行われた「ランドスケープ計画と環境保護」をテーマとした国際会議で、同大学のDr.H.Kimstedt教授はランドスケープ計画についてのアンケート調査を行った。

 その回答内容の概要についてはすでに日本造園学会の「造園雑誌55(3)造園学用語解説」「ランドスケープ」の中で紹介したが、全体的な傾向としては、アメリカを筆頭とする先進国以外では大変低調な反応で失望せざるを得ない現状が示された。

 当時IFLA Secretary-GeneralのPrf.Dr.Walter Mrassは、「アンケートによって国別比較ができるだけでなく、いかに我々ランドスケープ界が国際社会の中で貧しい状況に置かれているかという嘆かわしい事実を強く認識した。今後その改善に向けて努力することの必要性をIFLAの仲間に知らしめるために、日本でアンケート結果を出版できないか」と問い合わせてきた期待にこたえられないまま時間が経過してしまった。

 

■仲間とともに

 これら無我夢中で過ごした日々を振り返った時、言語・習慣の異なる人たちとLAという職能を共有しているということだけで、お互いにボランテイア精神を発揮し、国境を越えて協力し合うことができた背景には、特に主要なECやGC会議で、親泊素子さんの素晴らしい同時通訳があったおかげである。そのほか内藤恒方さん、息子の小林新等、何回か各地の大会に同行していただいた。そのほか造園学会、CLAはもちろん多くの仲間に支えられてできたことである。

 

筆者とワルタームラースIFLA秘書長

(撮影:杉尾伸太郎)

 現在のようなIT社会になっていない時代、それなりに楽しくボランテイア活動に専念することができたことは、多くの国の人々との出会いと、国際組織の持つ深い意義を強く感じたからである。その意味で多くの会議出席中に留守を守ってくれたTLA((株)東京ランドスケープ研究所)のスタッフには多大な負担をかけたことに対して感謝の意を記しておきたい。

 今後IFLAの仲間が伝えてくれた知的・文化的・歴史的意義をおろそかにせず、IFLAの仲間との人間的な絆を強め、信頼し合える仲間を大切にしながら時代とともに変化する社会状況を踏まえて、国境を越えてIFLA会員としての品位と礼節を保ちながら志を大きく持って、仲間とともに希望の持てるIFLA物語を記していくために残された時間を有効に使いたいと考えている。 

左:アジア地区バリ大会での基調講演

右:アジア地区バリ大会会場で日本からの仲間と


左:研究発表をした吉田博宣教授と田代順孝教授

右:アジア地区バリ大会参加者・中部ジャワ・ボルブドール寺院


アジア地区シンガポール大会学生コンペ表彰式


グリークホール<ベルゲン>で次期世界大会開催国、韓国の歌を披露

左:メキシコ世界大会参加者

右:ソウル世界大会講演(撮影:高橋一輔)


左:南アフリカ世界大会講演(撮影:杉尾伸太郎)

右:レンジャーに守られてウオーキングサファリ


バンコック世界大会に参加した日本の仲間


左:アジア地区淡路大会開会式(写真左は杉尾伸太郎アジア地区会長)

中:同大会での開催挨拶(筆者)

右:同大会での感謝状の贈呈

 

■アライアンスの経緯

 なぜアライアンスだったのか?20世紀末のIFLAの歴史の中で起こった出来事の中で、ドイツのウエルクマイスター博士の後、イスラエル代表のツビ・ミラー会長の運営が非常に独善的・私物化的な運営となり、先進国といわれる諸国の意見を排斥し、開発途上国の人たちの投票権を集めながらGCを支配し、人事・会計など独善的に運営しようとしたことへの抗議脱会がそもそもの発端である。ドイツも同じ行動をとろうとしたが、歴史的背景もありイスラエルには一歩譲っていたように見えた。

左上:生涯の友となったアライアンスメンバー(左からデビット・ジャービス/UK、ロバート・モーテンセン/USA、アラン・チェノビッチ/オーストラリア、筆者、ドン・バロン/カナダ)


右上:写真左のツビ・ミラー元会長と写真右のスタインボーン事務局員:このコンビが各種問題の発生源となっていたアライアンス会議

下:アライアンス会議


 IFLAを脱会したがIFLAの将来をいかにするかが常に議題の中心にあり、IFLAのTFC活動で一緒であったアーノルド・シュミットとは常に連絡を取りながら、アライアンスの考えを伝えてきた。結論的には淡路でアライアンスを解散させIFLAに戻ることとした。この時のアライアンスメンバーの活動を、イギリスのランドスケープ学会は高く評価して、アライアンスメンバーに名誉会員の称号を2000年に送った。 

■IFLAの明日を拓く ~IFLAとAIPHの合同国際事業~


左:錦州にてIFLAとAIPH代表の合同会議開催(2010年8月21日)

右:中国蘇州におけるIFLA ECへの説明(2010年5月26日)

 

■国際交流の重要性

【心得】

 私心なく世界の仲間のために活動する人の姿は、言葉を越えた言葉となり、異文化と異文化の壁を越えて人をつないでいく。そこにはいつの間にか深い人間的信頼関係が完成されている。IFLAの仲間達よ!とつい呼びかけたくなる。逢って酒を酌み交わしたくなる。そんな仲間が多くできたのはIFLAの御蔭である。

 しかし、このような機会に触れるためには、時間、金、体力がなくてはいけない。この3拍子がうまく整えば文句はないのであるが、なかなかそうはいかない。

 しかし、現代は交通機関の進歩、IT化社会等、科学の進歩で各種の交流は持ちやすくなったので、お互いの状況は情報交換できる。しかし、やはり直接非日常的な環境で直接懇談することが何より重要である。NGOとして非政府組織の存在下にある我々は、どこに行っても自由に専門領域の活動は可能である。

 今まで培ってきたわが国のLAレベルは決して低いものではなく世界が求めているものが多い。

 IFLA JAPANも日々脱皮を繰り返しながら、若い世代を中心に若々しく進んでいただきたいと考える。

 

小林 治人 Kobayashi Haruto

1961年、東京農業大学農学部造園学科卒業。新潟県庁勤務等を経て、東京ランドスケープ研究所創設、現在は代表取締役社長。
IFLA第一副会長、JAPAN-IFLA会長、社団法人日本造園コンサルタント協会会長、東京農業大学非常勤講師他を歴任、英国ランドスケープ学会(LI)名誉副会長。社団法人日本造園学会名誉会員他。