イフラジャパンの将来 その歴史から見た展望

一般財団法人 日本造園修景協会会長

杉尾伸太郎

1948年、ケンブリッジに於いて15ヶ国からなるIFLAが結成され、第1回大会が開催された。日本は1954年、ウィーンでの第4回大会から承認されて、佐藤昌が日本代表として初参加した。

1964年には、第9回大会が東京で開催され、23ヶ国から124人の参加があり、日本の造園界に多大な影響を与えた。

翌1965年にはIFLAがユネスコに加盟し、1975年には日本造園学会の内部にイフラ特別委員会を132名で設けることになった。ここで北村信正が日本代表に選出され、1981年にはIFLAの副会長となる。

1984年には日本造園学会会員全員がIFLA会員になることが決定し、1985年5月、第23回IFLA世界大会が日本で開催された。

写真1:1992年8月ソウルでのIFLA大会理事会 左:小林 右:ミン・コーユー
写真1:1992年8月ソウルでのIFLA大会理事会 左:小林 右:ミン・コーユー

1988年には、小林治人が副会長に就任し、1991年 第28回カルタヘナでの大会、小林副会長、杉尾代表が参加し、IFLA再建のタスクフォースの構想が承認されたが、改革が進まず、しびれを切らしたアメリカ、イギリス、カナダ、オーストラリアは1992年、第29回慶州の大会直前に退会し混乱を極めた。日本代表としては安部、輿水、杉尾で参加し、杉尾は東地区議長に就任した。35ヶ国1100人の大会で日本からも150人の大勢が参加したのである(写真1)。

写真2:1993年8月南アフリカでのIFLA大会 エクスカーションにて 左から杉尾、松崎、田畑、輿水、黒川他
写真2:1993年8月南アフリカでのIFLA大会 エクスカーションにて 左から杉尾、松崎、田畑、輿水、黒川他

1993年の第30回ケープタウン大会は、小林、杉尾、輿水が日本代表で参加し、(写真2)1994年には東京で退会4ヶ国と日本から小林が加わりタスクフォース会議が開かれ、日本案で統合の方向がまとめられた。この年の6月には、メキシコシティで第31回大会が開催され、小林、杉尾、輿水が代表として出席した。いつまでも埒が明かないIFLAに対して日本も退会することが決定した(写真3)。1995年 第7回東地区大会 クライストチャーチでは、日本から暫定組織で杉尾が代表として参加し、この年の7月に設立したイフラジャパン会長 小林治人、副会長兼事務総長 杉尾伸太郎、副会長 輿水肇ら72人で発足した。10月バンコクの第32回大会に参加し復帰をアピールした。

1996年には“イフプラジャパン”と類似するということで田代コミッショナーから申し出があり、やむなく“ジャパンイフラ”に改名し、第33回フィレンツェ大会には小林、杉尾らで参加した。1997年は第34回マルデル・プラータ大会(アルゼンチン)、(写真4)1998年バリ大会、9月はケンブリッジでの50周年セレモニー、(写真5)すべての大会に杉尾らは参加し、10月にはバリ大会が開催され杉尾は副会長に就任した。1999年、第36回コペンハーゲン大会、2000年は8月末の淡路島での東地区大会に引き続いて第37回サンノゼ(コスタリカ)で開催され、それぞれ小林、杉尾らが参加した。そして、この年、アメリカ、イギリス、オーストラリア、カナダが復帰したことは特記しなければならない。ここで、杉尾は副会長、日本代表、ジャパンイフラ会長の全てを辞し、その後、大塚に日本代表とジャパンイフラ会長を引き継いだのである。

写真3:1994年6月メキシコでのIFLA大会 右:小林
写真3:1994年6月メキシコでのIFLA大会 右:小林
写真4:1997年10月アルゼンチンでのIFLA大会 マルデルプラータ 左から杉尾、町田、一人あいて故ミラー
写真4:1997年10月アルゼンチンでのIFLA大会 マルデルプラータ 左から杉尾、町田、一人あいて故ミラー
写真5:1998年9月ケンブリッジでのIFLA50周年ドキュメント類
写真5:1998年9月ケンブリッジでのIFLA50周年ドキュメント類

そもそもIFLAは一国一団体が加盟することが決まりになっているユネスコ傘下の団体で、その国のランドスケープ・アーキテクトすべてを代表する統一組織のみが加入の権利を有している。

日本造園学会は当時、その立場を認められたのは当然で、イフラジャパンが加盟を認められたのは、あくまで暫定措置であり、当時の会長であった小林の念書もなるべく早い機会に2000人規模で日本の組織を再編して加入するような内容でIFLAに提案し、復帰することができた。イフラジャパンの名称も不適切との非難もあったが、暫定的な名称であり、いずれ発展的に解消して新組織、あるいは日本造園学会、さらには日本造園修景協会が、その任にあたることがふさわしいとされたのである。 

しかし、学会の復帰が難しいために、まず造園家の資格の整備から図るべきと考えたのである。そのために蓑茂を委員長としてCLA内に委員会を立ち上げRLAが成立することになった。技術士はあくまでもエンジニアであり、造園家は、それ以外の芸術や生物などの科学も身につけていなければならないので、別に作る必要があった。資格はアメリカのクラーブ で行っているものと同等であり、他の先進各国以上のレベルのものでなくてはならなかった。

このことで、世界の造園家と対等な立場がようやく確立された。

また、この資格は先進各国と共通の試験やフォローアップ方式をとっているので、各国との相互乗入を行うことで、TPPの自由化にも対応できるのである。

日本造園修景協会、あるいは新しく統一した団体(JLAU*井上忠佳)がIFLAに加盟すれば日本の造園家の地位は大きく飛躍することが可能となろう。

また、日本の団体、仮にJSLAとすれば、私が今ASLAに入っているように各国からもJSLAに入ることも考えられ、2000人どころか5000人以上の団体に発展することは決して夢ではないのである。

―参考文献―

1.1995,58(4)ランドスケープ研究 386-389pp.

   国際委員会―IFLA活動を主とするこの10年―

   国際担当常務理事・イフラ日本代表  杉尾伸太郎

   日本造園学会

2.2009,No.82,May IFLA Newsletter Introduction

   IFLA Americas Region

   Vice President,IFLA Americas Region Darwina L.Neal

     IFLA

         CLARB:Council of Landscape Architectural Registration Boards

       (米国の各州ランドスケープアーキテクト認定共通試験実施機関)

杉尾 伸太郎 Sugio Shintaro

1960年京都大学農学部林学科(造園研究室)卒業、厚生省国立公園部、鹿児島県、環境庁を経て、(株)プレック研究所創設、現取締役会長。IFLA東地区議長、IFLA副会長、IFLAジャパン会長などを歴任。現在、(一財)日本造園修景協会会長、イコモス・イフラ(文化的景観)バイスプレジデントなどを務めている。