IFLAと造園界発展への情熱 北村信正氏の活動と心

 デレゲート・副会長としてのIFLA 運営に見る規範

田代順孝

■はじめに

 本稿の目的は、日本の造園界の国際化と総合化を追い求め、自ら先頭に立ってIFLA活動を実践してきた国際的造園人北村信正氏の人となりと心から見た道筋を紹介することにある。その道筋の中で北村氏の行動規範ともいえる“余裕と遊びのある動き”が遺憾なく発揮され続けたことを“真摯なIFLA活動”の中に見ることができると考える。

 

 現在、日本の造園界では設計界はランドスケープアーキテクトを、管理・運営界は管理運営士(パークマネージャー)を名乗り、専門職能の充実と向上、職域の拡大に向けて世界的・全国的な活動を展開している。世界との交流も年々活発になっている。このような発展の礎は、実は北村氏がIFLA(国際造園家会議)という世界組織に積極的に関わり、日本の造園界の人間が世界のLandscape Architectと直接顔を合わせて存在をアピールし交流を続けてきたことの中に存在するのである。ここではその必要性を予感し、自らリーダーとしての仕事を精力的にこなし、世界に日本の造園界を認知させ、今日の発展の原動力として評価される北村信正氏のIFLA 活動を振り返り、その成果を顧みるとともに、畏れ多いことであるがドライビングフォースとしての“人間的思い”に触れてみたい。なお、氏は造園専門家として東京都公園緑地部、造園学会、民間造園会社役員等の仕事を通じて華々しい成果を上げられているがその事についての記載はここでは控えさせていただく。

 

1)国際造園会議日本大会(1964年)への取り組み

  ~IFLAへのかかわりの契機~

 IFLA 国際造園会議日本大会は1964年(昭和39年)に開催された。東京オリンピックが開催された年でもあり、日本の高度経済成長の姿を世界にアピールする盛り上がりの中で、日本の造園界の悲願として総力を挙げて取り組まれたこのイベントはまさに世界へのデビューであったといっても過言ではあるまい。

この会議は当時IFLAの理事会で副会長であった佐藤昌が提唱し、のち1962年大会で決定された。日本造園学会会長であった佐藤氏は都市計画会館内に事務局を置く実行委員会を組織し運営にあたった。

 日本では、大正年代に日本造園学会が「造園学の訳語としてLandscape Architectureを充てる」と宣言して以来、その世界的活動の土俵をIFLAに求めてきた。IFLAに参加する認定専門家組織(Affiliate Organization)を日本造園学会と定め、佐藤昌、横山光雄、戸野琢磨などが先駆的に日本造園学会を代表して世界会議に出席し、徐々に日本の存在をアピールし、発言力を増していった。IFLAにとって初めての世界会議(コングレス)開催を東京都に誘致し、(社)日本造園学会の公式事業として開催にこぎつけた。開催に当たっては、学・官(建設省と東京都、および造園学会)のコラボレーションが組まれ、その組織力が前面に出た体制が組まれた。この時期には日本の造園界にはまだ”業界“としての組織は存在していなかったのである。大会を契機に、学・官・産の連携が意図され、設計業界、造園施工業界が力を増してきたといえる。

 日本造園学会は定款に基づいて事業を実行委員会に委託した。まだ学会が直営の事業を執行できる能力を備えていなかった時代である。組織体系は以下の様であり、北村は企画部長を担当している。

 実行委員会 委員長:佐藤昌、副委員長:森脇竜雄、田治六郎   

 事務局長:金子九郎

 総務部長:金子九郎、経理部長・渉外学術部長:横山光雄、

 事業企画部長:北村信正

 

 大会開催の国内的周知を図る情報源・宣伝媒体として、IFLA本部の活動を造園学会会員に紹介する「IFLA NEWS」第1号が63年9月に発行された。編集長は総務委部長でもあった金子九郎氏が務めた。この事業の実行過程で北村は東京都の現役職員であり、公園緑地部の課長職にあった。大会運営では事業部長として資金面を担当し、東京都募金条例の下での寄付募集行為許可を取り付ける等募金集めの手法を駆使した。一方で大蔵省特定寄付に対する税対照控除許可を取り付け寄付による資金集めの方途を開いた。一方、大会プログラムは、造園学会が総力を挙げて工夫を凝らし内容は多岐にわたり、研究発表、スタディツアー(造園事業実施地視察、名園視察など)ソーシャルプログラム(交流企画)が組まれた。この実施に当たって、重鎮から若手まで会員を総動員した。大会の成果は後日「日本の造園」として出版され、情報発信ツールとして造園界内外に活用された。特に造園系の学生にとっては有用な参考図書となった。 

 この大会運営の特色は、学が前面に出て、官がサポート(資金集めと事業体制づくり)するということにあった。世界から第一級の専門家をお迎えし、おもてなしするという姿勢がきわめて明瞭であった。海外から日本を訪問し大会に参加した彼らを日本の隅々まで案内して、日本を知って、それを彼らの言語で語ってもらい、世界に発信するという日本特有の接遇(おもてなしの精神と振る舞い)が造園界に構築された時期でもある。もう一つの成果は、行政事業でない国際会議を運営するための財源確保手法に新たな道筋がつけられたとことであるといえよう。このような地道な努力があって初めて“学”側の発表が可能になったのである。造園という“業”に携わる人々が互いにまとまれる“場”を北村はこのころから強く意識していたようである。

 

2)IFLA 世界造園会議の大会・理事会への参加と IFLA特別会員会(1974年)

  ~日本の造園界の世界へのデビューと日本造園学会の対応~

北村のIFLA 世界造園家会議(IFLA World Congress)へのかかわりは1969年からであり、これ以降積極的な活動が開始された。この年日本造園学会副会長として選出され、IFLA 担当理事としてIFLA との折衝を任された。70年にブラッセル会議に出席した。以降、北村は特に日本代表(デレゲート)として先人“代表”諸氏の後を継いで、コングレスとカンファレンスに積極的に参加し、日本の造園界の存在をアピールし続けた。当時の会議の種類は隔年開催のCongress(各国のデレゲートが必ず参加し討議する会議・理事会、発表会・交流会で参加者は世界各国から)とRegion 中心のConferenceの2種類があった。さらにテクニカルミーティング(技術交流会)、セミナーなどが運営された。どちらにするかは事前に理事会で検討され、開催国が決定された。72年にウィーン会議に出席後、氏はイスタンブール(74)、サルバドール(76)、ベルリン(78)、ベルン(80)、バンクーバー(81)キャンベラ(82)、ブタペスト(83)と連続して代表として出席している。余談であるが、80年のベルン大会はIFLAにとって特記すべき意味を持っていた。IFPRAと合同開催であったのである。スイスでは行政機関が中心にランドスケープ分野の仕事をしており、園芸・造園系市大学・高等教育機関出身者が国や都市の重要なポジションを担い、民間にも同様の業界的組織群が形成されていた。今日多くのアジア諸国でも同様の状況が見られ、IFPRAアジア・太平洋支部大会(オーストラリア)でIFLA会長が”合同の方向性“について講演を行ったことは記憶に新しい。日本的感覚からすれば、「造園界の合同」に近い発想であると筆者は痛感している。また82年のキャンベラ大会では日本から北村、佐藤、横山らをはじめ大挙40人もの参加があり、日本語の通訳が用意されるほどに認知の程度が高まった。この時の理事会で85年大会の日本開催が確定した。日本大会のための感触探りの意味合いもあった。日本の代表としてこれら世界大会の理事会に連続して出席し、日本情報を発信し続けたことが北村の最大の貢献であり特筆すべき事柄である。特に81年バンクーバー大会ではIFLA 副会長(イースタンリージョン)に選出され、その後の日本大会開催の原動力になり、日本の造園界の国際的進出やEastern Region の発展に重要な役割を果たすことになった。

 

 IFLAの世界造園家会議では発表会と交流会(ソーシャルイベント)が主要な行事・プログラムであった。今日のようなIT技術がほとんどなかった時代には、直接対面式の専門家の交流は世界の情報を知る唯一の手段であり、極めて重要な国際交流活動であった。交換される資料は手作りの紙媒体で、紙面数が限られていたため参加者の記憶・記録が重要な情報源として再生されたのは言うまでもない。ただし、使用される言語が英語とフランス語に限られていたために、英語を母国語としない日本からの出席の場合、通訳・翻訳という作業が重くのしかかっていた。この事はごく最近までの日本の造園界においても大きな悩みの一つであったことは多くの読者の記憶にあると思う。メインプログラムである発表会の前に開かれる理事会(Grand Council)で財政問題 ,財務問題、会員確保、事業運営の詳細やIFLA の将来像、ランドスケープアーキテクトの社会的地位向上、世界戦略などが討議され、決定されてきた。とくに会員資格、会費の額の決定、予算・決算の承認、世界会議の開催地などがこの場で決まったのである。

 

IFLAの世界造園会議では各国のプロジェクトと研究の発表会と交流会(ソーシャルイベント)が主要な行事・プログラムであった。今日のようなIT技術がほとんどなかった時代には、直接対面式の専門家の交流は世界の情報を知る唯一の手段であり、極めて重要な国際交流活動であった。交換される資料は手作りの紙媒体で、紙面数が限られていたため参加者の記憶・記録が重要な情報源として再生されたのは言うまでもない。ただし、使用される言語が英語とフランス語に限られていたために、英語を母国語としない日本からの出席の場合、通訳・翻訳という作業が重くのしかかっていた。この事はごく最近までの日本の造園界においても大きな悩みの一つであったことは多くの読者の記憶にあると思う。 メインプログラムである発表会の前に開かれる理事会(Grand Council)で財政問題 ,財務問題、会員確保、事業運営の詳細やIFLA の将来像、ランドスケープアーキテクトの社会的地位向上、世界戦略などが討議され、決定されてきた。とくに会員資格、会費の額の決定、予算・決算の承認、世界会議等の開催地などがこの場で決まったのである。筆者は北村氏の通訳兼補佐として多くの理事会に出席させていただいた。

 それぞれの参加国が主張を通すためには、当然のことであるが、理事会に出席し、発言し続けなければならない。それと同時に、大会に“ある程度の人数”が実際に参加していないと、発言に重みが出ない。こうした情勢の中で、デレゲート、発表者以外の“大会参加者”数は参加国の“業界力”を示すバロメーターでもあった。北村はこのことを強く意識しており、日本からの“参加者団”、を積極的にオーガナイズする事に努め、多くは“公園緑地事情調査団”という形の参加団体を毎回オーガナイズし、造園界のあらゆる分野、階層から参加者を募った。結果として国内交流を深め、国際交流を深めることに大いに貢献したのである。

 

 当時のIFLA 会議はいわゆる西欧諸国、とくに英、仏、伊、西のランドスケープアーキテクトの“サロン”とでも表現できる“雰囲気”であった。ちなみに、会議での言語は上記のようにフランス語と英語が公式言語であった。実はこのことの弊害があった。理事会や発表会資料は英仏二か国語が併用された。特に理事会ではフランス語発言を英語に通訳し、またその逆も行われたために、審議に長時間を要したのは記憶に新しい。それぞれの国ではランドスケープアーキテクト(いわゆる造園設計家)は社会的に認知され、卓越した仕事をこなす“専門技術者”として活躍していた。高級なオフィスを構え、デザインを売りに出すことのできる都市景観形成にかかわる仕事師だったのである。

 

この頃から(1976年ころ)「日本にはLandscape Architectは何人いるのか?」という質問が公式、非公式に矢継ぎ早になされるようになった。その真意は会費の人頭税的振り分け方式(会員数に応じた会費額の納入)を意図し、日本から多額の会費を納めさせようとする欧州勢のたくらみでもあった。結果として、“本部からの強い要請”によって、会費納入の根拠としての日本の「造園家の数」を正式に報告することが“要求されたのである。日本造園学会が認定登録団体であったために、造園学会員数=造園家数としたのでは、日本の負担金は高額になること必至の情勢であった。当時学会会員数は1700名を超えていた。この為、ランドスケープアーキテクトとしての有資格者を造園学会会員から募って学会内部に74年にIFLA特別会員制度(技術士検定試験受験資格を保有するに相当する者で希望するものを会員とし、IFLA会員とする)。 これを機に北村が日本造園学会副会長、IFLA日本代表として選任され、IFLA幹事会が設置され、井手久登(東大助教授、当時)と田代順孝(建設省土木研究所主任研究員、当時)で幹事会を運営・補佐した。IFLA と日本の造園界をつなぐ情報源および交流拠点として、本部情報を中心としたIFLAニュースを定期的に発行した。手書き紙媒体から出発し、印刷媒体に発展した。なお、特別会委員会はIFLA JYAPANのロゴを決定しニュースほかの媒体に使った。その後幹事会は井手、田畑、池原、大山、小林、坂田、内藤の各氏を運営委員とする運営委員会に組織替えされ、田代が幹事を務めた。また北村は日本の実情をアピールするため当時の本部との度重なる折衝で、日本の造園技術者の実力、活動分野、アジアにおける特殊性を繰り返し強調し、国際情報を多く採集した。

 

3)IFLA 副会長(Eastern Region)と第23回IFLA世界造園家会議 日本大会(1985年)

 再びIFLAの世界会議が日本で開催されることになった。1980年のIFLAベルン大会理事会(会長は西ドイツのHans. F.Werkmeister)で85年の世界会議開催地が日本に決まった。(その後81年のキャンベラ大会で開催が確定した。)そしてイスラエルのZvi Millerの後任としてイースタンリージョン担当の副会長に指名された。) 副会長としての大仕事が85年世界造園会議日本大会であったわけである。日本造園学会はこの年開催準備委員会を設置し、北村が委員長となった。その後大会実行の組織委員会が組織され、北村は組織委員長に指名された。 大会のテーマは“Creative Environment”であった。この大会では、日本庭園造りに代表される東洋の特殊なLandscape Architecture ではなく、国際仕様としても通用する日本の造園界の実力(本人談)を世界にアピールすることが大きな狙いであった。 別の言い方をすれば日本の造園界の総力戦であり、造園における現在の長老組、準長老組が国際的、国内的にデビューする登竜門であり、国内的に造園の諸力を知らしめる役割もあった。大げさに言えば“造園的国威発揚の場”造りでもあった。東京と神戸を主会場として開催され 日本造園界すなわち産業界(計画設計・施工・管理・材料)、官界、学会の大同団結が図られた。設計業界は業務分野の認知と勢力拡大、ランドスケープアーキテクト集団としての自立・発展の基礎杭を打った大会でもある。職能としてのLandscape Architectをランドスケープアーキテクトとして国内に広く紹介し、建築家=ビルディングアーキテクト(Building Architect )とは違うことを印象づける意味合いもあった。IFLA内部ではこの問題は継続的に審議され続けてきた問題でもあり、日本では“造園家”職能の社会的認知に向けての布石でもあった。

 


左:IFLA執行部 会長H.F.ウエルクマイスター、イースタンリージョン担当副会長 北村信正他

右:北村IFLA副会長紹介記事(1981)

大会の組織は以下の様であった。

  大会会長  北村文雄(造園学会会長)

  組織委員長 北村信正(東京都公園協会理事長)

  総務委員長 小林治人(造園コンサルタンツ協会協常務理事)

  学術委員長 井手久登(東大農学部教授)

  事業委員長 平野侃三(公害防止事業団常任顧問)

  財務委員長 北村信正

  募金委員会 金井格 (東京農業大学教授)

  接遇委員長 八木勉 (神戸市公園緑化協会常務理事)

  関西本部

 

 北村は組織委員長の重責を担うことになった。この時東京都を退職し、東京都公園協会理事長として官民を結びつける役割を担っていた。大会運営では事業企画と特に財務面で精力的に取り組んだ。経費のかなりの部分を大会参加費で賄い、補助金(官公協会)、寄付金(個人、団体 全予算の約2分の一)を獲得する手立てを工夫し、予算を組んだ。この予算編成が、参加者負担方式(会費依存度の割合を高くする)であり、実は北村方式とでも称することができるものであった。この中で指定寄付金集めにための大蔵省許可の取り付けに成功し、産業界からのサポート体制を確立する等により、大きな運営基盤を形成した。このサポートをお願いするうえで北村の人柄と“思い”が大いに力を発揮したといってもよいであろう。サポート体制を組んだ当時の国内の造園関連団体は造園コンサルタントツ協会、造園修景協会、造園建設業協会、公園施設業協会、体育施設業協会、水景協会、公園緑地協会、緑化センター、、国立公園協会、自然保護協会、東京都公園協会、大阪市公園協会、神戸市公園協会などである。なお、大会のプログラム関係や資料・記録・報告は膨大な点数があるが、詳しくはそちらを参照していただきたい。

 

 一方、この大会のもう一つの意義はIFLA内部でのアジアの立場を強くアピールできたことであり、その成果がEastern Region の発展に向けての原動力になったといえよう。アジア各国のIFLA への参加の母体がLandscape Architecture (官庁と設計・計画の職能集団)であり、日本の造園設計業界からランドスケープアーキテクトへの“脱皮”の声が次第に強まった。職能集団が設計事務所連合からランドスケープコンサルタントツ協会へと発展し、コンサルタンツという職能が脚光を浴びるようになったのである。 一方でIFLAへの加盟は依然として“造園学会を窓口とする造園界全体”が母体であったが、民間の専門家主体のIFLA 対応も模索され始めていた。北村は公職を退いた後、今度は民間造園会社(東洋造園株式会社)の社長として民間側から造園界の発展に尽力し、デレゲートとして、民間の造園人に呼びかけ、精力的にIFLA 参加を促し、北村式調査団を編成し、団長として各国の造園事業の成果を確実に多くの目で調査し、日本に紹介してきた。同時に日本の実力の発信も行ってきた。

 

4)IFLA 世界造園会議への参加に見る“日本の発信”と海外事情の「調査・収集」

  ~ブラジル大会団体参加を契機として~

 北村は自らが最も大事にし、得意とする“ファミリア―な”グループづくりとコミュニケーション形成をモットーとして、IFLAへの参加・アピールと国内への周知を図ってきた。北村のコミュニケーション力が遺憾なく発揮されたのは、78年のブラジル大会以降の参加であるといってよいであろう。ブラジル大会は南米で初めて開催された記念的大会であった事もあり、北村は“第16回国際造園家会議及びラテンアメリカ諸国都市緑地事情視察団”を編成し、日本から多くの民間人造園家が参加した。総勢34人であった。大会への外国からの参加者数上位国とした。メンバーは大会プログラム期間中各国の発表を聞き、プログラムで用意されたツアーと独自のプログラムでブラジル・アメリカ・メキシコの“公園緑地整備水準、設計水準、施工水準、管理水準”を目の当たりにして感激し、様々な“参加者交流プログラム”において専門家交流だけでなく、国際交流という大きな役割を果たしたといえる。

 

 当然のことながら、国際造園家会議としての参加・発表のコンテンツ作りも組織的に行われた。“日本の先端的政策紹介”と“専門家の実力紹介”という二つのノルマを果たすべく、当時発効したばかりの“緑のマスタープラン”が紹介された。北九州市をモデルとしたマニュアル版であり、三好勝彦建設省公園緑地課長が出席予定であったが、都合によって代理の都市計画課曽田𨥆久嗣専門官によって発表された。きれいな印刷物の資料が用意・配布され、流ちょうな英語のスライド・プレゼンテーションが行われ、好評を博した。ランドスケープアーキテクトが直接、全面的にかかわった国レベルでの“計画政策プロジェクト”としてきわめて高い評価を受けたことはある種の驚きであった。デザインの仕事が主なランドスケープアーキテクトにとって驚きの眼で受け入れられたことを覚えている。予算配分、財源確保、市町村の執行体制、ランドスケープアーキテクト(造園コンサルタント)の役割・仕事のカテゴリー・費用など多くの質問が出され、これ等への応答でも“意思疎通”がなされた。フェース・ツー・フェース(対面式)の重要性が実感されたことを添えておきたい。国際学会で最も重要な機能はこの“直接対面式交流”であることは今でも変わらない。これを機に日本のランドスケープアーキテクトが国、地方自治体、設計・コンサルタント業界、施工管理業界で多数活躍していることを知らしめることとなった。

 

 この大会への参加は遠くブラジルでの開催ということもあって、視察ルートは東京~ロスアンジェルス~メキシコシティ~リマ(ペルー)~クスコ・マチュピチュ~サンチャゴ~ブエノスアイレス~陸路アスンシオン・イグアス~サンパウロ~サルバドール(開催地)~マイアミ・ディズニーワールド~サンフランシスコ~という超長距離コースで18日間の長期視察であった。この会議参加の視察地訪問のように、何か国・何都市かの公園先進地・造園設計事務所発展地を訪れて視察し、実感する方式が確立したのも北村方式と呼ばれる“国際造園交流”の大きな特徴といえる。最先端の造園技術の集大成を見るディズニーワールドや数十頭に及ぶパンダの飼育・展示を実感できたメキシコシティのチャプルテック公園、イグアスリゾートなどは特記される。また当時ブラジル国内で創造的庭園・植物園デザインで第一級の活躍をしていたRoberto Burle-Marx氏の庭園・植物園・アトリエを訪問し、あらゆる植物を活用した“環境設計”の現場と作品のマネジメントを目の当たりにすることができ、造園における植物デザインの本分を感受することができたのも大きな功績である。

ちなみにツアー管理とコンダクターはツーリストの添乗員が行ったが、視察地の選定、現地との折衝は北村本人が各国のデレゲートを通じて地元のランドスケープオフィスとじかに折衝し、詳しいルート設定・視察内容の設定を行い、専門家の要求にこたえるコンテンツを用意したのである。またブエノスアイレスでは女性LAのオフィスで現地の仕事内容をじかに見せてもらい、地元設計界の人々との交流の場を用意してくれた。なんと半数近くが女性であったのには驚きを禁じ得なかった。LAは女性にも適職なのだと痛感した次第である。

(写真は、B.MARX研究所にて:手前中央B.Marx、左が北村信正、右が田代順孝)
(写真は、B.MARX研究所にて:手前中央B.Marx、左が北村信正、右が田代順孝)

 この大会以降IFLAへの夫人同伴参加が定着したのは特筆される。当時国際学会や会議では日本からは男性だけが参加する大会が常識だった。公費公務出張が定番の日本では夫人同伴などもってのほかという社会情勢であった。ほかの国の参加者は夫人同伴が常識であり、大会ではAccompanying Persons Programmが必ず組まれていて夫人や子供のための特別プログラムが用意されていた。デレゲートや発表者も女性が3割以上占めていた。恒例として晩さん会が毎回催され、参加者が正装で、夫人同伴で参加し、交流するのが習わしであった。とくに各国の婦人たちはこのためにドレスアップし、その準備のために特別の時間が配分されたのである。日本から参加したご婦人の方々も和服、洋装の仕上がりに相当苦心されたようである。このためにスーツケースの中身が増量し、重量オーバーを気にしなければならない事態も発生していた。しかし、日本の造園界が男尊女卑でないことを印象付ける証でもあった。今日では参加者の6割以上が女性という国がほとんどであり、造園界、特にランドスケープ界における女性進出の現状から見ると、日本の状況とは雲泥の差がある。

 デレゲートや発表者も女性が3割以上占めていた。恒例として晩さん会が毎回催され、参加者が正装で、夫人同伴で参加し、交流するのが習わしであった。とくに各国の婦人たちはこのためにドレスアップし、その準備のために特別の時間が配分されたのである。日本から参加したご婦人の方々も和服、洋装の仕上がりに相当苦心されたようである。このためにスーツケースの中身が増量し、重量オーバーを気にしなければならない事態も発生していた。しかし、日本の造園界が男尊女卑でないことを印象付ける証でもあった。今日では参加者の6割以上が女性という国がほとんどであり、造園界、特にランドスケープ界における女性進出の現状から見ると、日本の状況から見ると雲泥の差がある。

 ブラジル大会への参加の特色はこのように産官学共同参加と夫人同伴参加の先駆けとなった。北村自ら調査団団長となり、未知子夫人が同伴された。奥様のお声掛けで5組ほどの夫人同伴組が参加され、今も交流が継続しているとお聞きしている。さらに北村は得意のピアノ演奏でアフタープログラム交流に花を咲かせた。このような取り組みは北村が第一線を退くまで継続された。参考までに付記すると、1979年のケンブリッジ大会への参加の時にこうした姿勢の萌芽がみられる。

 

4)北村の処世訓とIFLA活動

 最後に“造園人”としての北村が本当に伝えたかったことに触れてみたい。北村は常々“人と仲良くやっていく”ことを心がけていると語っていた。造園学会誌の企画にある第2回上原敬二賞受賞者インタビューに答えて、次のように明快に説明している。「私の処世訓とでもいうものをご披露すれば、私は人に迷惑をかけないということをいつも考えていました」。「同様に私は余裕のある動き、遊びのある動きを心がけてきました。中略・・・ピアノを弾いてもこれは趣味であって、必死になってそれを深めようとせずに楽しむ。つまり溺れないのです」。そして、「柔構造の組織運営といいましょうか、このようなことで私はこれまでやってきました」。あえて言わせていただければ“「造園」を通じて世界とつながるという姿勢は「音楽を通じて」人とつながる”姿勢と重なり合うであろう。

 このような心と行動規範はどこから生まれたのであろうか。シベリア抑留という過酷な試練を乗り越え、人生の目的を控えめに全うした意識の背後にある“思い”は、人との縁を大切にする“造縁人”としての北村であったということができよう。北村は造園家を“園を作ることは当然ながら「縁」を造る仕事をもっぱらとする仕事人”というのが口癖であったという。筆者も常々お聞きしている。北村は1938年に東京市に大学卒として初めて採用され、現場助手を務めた矢先に、戦時に突入、兵役検査甲種合格し、工兵として配属され訓練を受け、中国大陸で“旅団工兵”に配属された。終戦直前に奉天工兵隊司令部高級部員として招集され、終戦に伴いシベリアに抑留されることになった。北村の述懐ではこの時の経験が、その後の人生処世に大きく影響したという。筆舌に尽くしがたい厳寒の地シベリアでの抑留中、「収容所の中で得意の音楽をツールに“演芸部隊”を作って自作の音楽や劇をみんなで楽しみ、生活にハリを持たせた」。ことが忘れられないという。この収容所で“みんな楽しみ、ゆとりのある生活(収容所生活)を送る”ライフスタイルが身についたという。

 

 北村のこのような心の発露を筆者なりに見出すとすれば、90歳台になって夫婦揃って洗礼を受け、2010年5月に神に召された際に、“グレゴリー北村信正”として司祭に遇せられた事実と長年にわたる奉仕の諸活動の中にあるのではないだろうか。筆者にはこのことを語る資格はないが、多くの読者にはご理解いただけるものと思う。

 

 最後に、筆者が直接語るにはあまりに畏れ多いので、横浜市のまちづくりに長年取り組んできた長男の北村圭一氏にお願いして以下の言葉を頂いた。

 御尊父の事について氏は次のように述懐している。

 

 「父は97歳になっても骨格がしっかりしており、亡くなる少し前まで大好きなピアノを弾いていました。分厚い手と太い指からは想像がつかない繊細な音色と巧みなテクニックは、IFLAで世界に出かけても聴く人を喜ばせました。私は子供の頃、父が担当していた現場に連れて行かれては、公園づくり緑化は聖職に近い、しゃもじを持った陳情団が来ても怖くない、みんな後押ししてくれるからと話してくれました。今から思えば、私がLAの大学を受験し、横浜のまちづくりを担うように決心したのも世界的な視野から自分の立ち位置を見極め、人間の為の環境整備という目標に向かっての父の仕事を見てきたからだと思います。長年に亘ってIFLAを主とした国際的な仕事を通じて、父の取り組みが我国のLandscape Architectの土壌となる事が出来たなら、この上なく幸いです。私も横浜をベースにまちづくり、人との縁づくりに努めていきます。父とかかわりを持ってくださったすべての方に改めて感謝いたします。

 

あとがき

本稿を書くに当たり、スポットライトを北村信正氏の人となりと個人的まなざしにあてたたために、具体的な行事・出来事に関する組織的、人事的事柄についてはほとんど触れることができなかった。末筆になるが付記して読者のお許しを得たい。特に日本造園学会とIFLAのかかわりの発展についてことの流れのほとんどすべてを発案・熟知され、補佐役に徹し、生き字引とでも称される東京大学名誉教授井手久登氏のお仕事がなければ今日のIFLAジャパンとしての、さらには国際貢献・交流の発展はあり得なかったといえる。また北村氏の後継として創成期から日本のランドスケープデザイン界をIFLA世界にアピールし、自らデレゲート、副会長としてリーダーシップを発揮された小林治人氏の取り組みを始め、多くの方々のそれこそ奮闘の数々によって、ここで述べたような国際造園人北村信正氏の足跡のすべてが語りつくされるのではなかろうか。紙数の制約と執筆企画の関係から筆者の独断的語りになったことをお詫びしたい。IFLA鞄持ちとして北村氏のご指導を受け、お手伝いさせていただいた筆者の垣間見た見聞録としてお読みいただければ幸いである。

田代 順孝 Yoritaka Tashiro

1973年千葉大学大学院園芸学研究科修士課程修了(造園学専攻)、1979年東京大学大学院工学系研究科博士課程修了(都市工学専攻)。建設省土木研究所などを経て、1995年~千葉大学園芸学部教授。1975年~IFLA幹事、2004年~国際委員会会長などを務める。