思いつくままに! 国際造園職能団体―IFLAの今昔

田畑貞壽

■はじめに

1948年IFLA第1回大会がロンドンで開催され、以後2年おきに世界大会が開催されてきて、2013年で第50回の世界大会を迎えるのだという。

筆者がIFLA大会や地区大会に関わりだしたのは、『JILA』が窓口になっている頃で、1964年の東京・京都大会以降からである。

その後『JAPAN IFLA』が立ち上がってからも何回か大会や地区大会にも参加した。その時期では特に、1981年のバンクーバー大会の時から1999年のベルゲン大会までの北村信正氏を中心に動いていた時期の後の小林治人氏が中心となってから、同席する機会が多々あった。

特に1981年から設置されたルーラル ランドスケープ委員会が出来てからは、その委員を引き受けた事もあり、何度か小委員会に出席した。

その間、日本側の国際的造園活動の受け皿が、『JILA』の時代、『JAPAN IFLA』の時代そして現在の『IFLA JAPAN』の時代と変わってきた。

今後さらに日本独自の造園家職能団体の結集によりどのような方向をたどるのかはさておき、過去から今日までの筆者が10数回にわたる大会に参加して、特に印象に残っている話題を思いつくままに2~3個、取り上げてみたい。

■1964-1966年日本大会以後

IFLA大会で教えられたことも沢山あるが、むしろ学んだことも多い。

1964年の東京・京都大会の後に、筆者はパキスタンの首都イスラマバードプロジェクトに参加し、アテネのドキシアデス事務所やイギリスのラブジョイ事務所の他フランス、イタリア、ドイツ、アメリカ、カナダなどから来ていた多くの専門家の人たちと共にそれぞれ職種別に計画・デザインを進めていた。

その中で、首都のランドスケープを基調に、ナショナルパーク内のメイン施設のデザインや居住地区の公園緑地のデザインを進めている時である。約8ヶ月後のラマザン(断食期)の期間を利用し、アテネとロンドンでプロジェクトの打合わせの為、ラブジョイ事務所のレンカスター氏などと出かけるところに、横山先生から、シュッツトガルトで開催される第10回(1966年)IFLA 「都市における造園家の役割と造園計画」に出席しないかとの誘いを受けて参加した。

英語やドイツ語でスピーチすることなど未経験で大変な思いだったが、偶然にもレンカスター氏夫妻、特に奥さんがベルリン生まれだった為、通訳して頂き、発展途上国の首都計画と、ランドスケープデザインに有益な内容について沢山学ぶことができた。

その中でも、当時、若年層であった筆者にとっては問題意識の異なる人たちの交流は、きわめて新鮮な内容に映った。また、エスカーションで訪れた中にヴィルヘルムスへーエ宮殿と庭園の見学が印象に残っている。

偶然にも、2013年6月に富士山の世界文化遺産登録が知らされたと同時に、ドイツでもヴィルヘルムスヘーエ公園が登録されたことを知り驚いた。

 

大会の枠組みは、それぞれの開催国の主体性によるものの、テーマの設定やその発表などは、理事会や各国代表の参加によって論議されていた。大会で欠かせないのは基調講演もさることながら、エスカーションも大変重要視されていた。

このように大会内容については、ドイツの各都市で実施した時は、参加者にとってかなり大きい成果を持ち帰ることができたと思っている。

■1976年ヨーロッパとアジアの架け橋イスタンブール大会

日本の代表が『JILA』の会長 横山光雄先生から副会長の北村信正氏に代わり当初は学会のメンバー全員がIFLAメンバーに登録されていた。その後、会費問題から希望者のみがIFLA 会員となった時期で200名程度だと記憶している。しばらくこの問題は第23回日本大会(1985年)まで続いていた。参加メンバーは、アメリカに次ぐメンバーが登録された時期でもあった。

さてヨーロッパ地域での大会を経験し、第15回のヨ-ロッパとアジア地域の結節点ともいえるトルコの第15回イスタンブール大会(1976年)では、日本からは、20名程度の方が参加した。

筆者はこの時、東欧諸国東ベルリン、ワルシャワ、プラハ、ブタペスト、ベオグラードの歴史都市の環境調査も兼ね、調査終了後会議にIFLA世界大会へ参加した。

テーマは「海浜地域の保全と管理」であった。当時の海岸地域の開発は、各国とも都市化、工業化により、海岸線の改変は驚くべきであった。

参加国24ヵ国300人余の参加者を得て盛会に行われた。

大会では「海浜地域の価値及び資源に対する人間活動の生態学的影響、海浜地域の開発と保全管理における造園家の役割」をメインテーマにとして18人からの報告があった。そしてそれに加え事例研究及び提案などが出され、13項目にわたる各界への提案書が出されている。

それから40年になろうとしているが、東京湾岸地域を見ても、いまだに問題解決がさていない課題が多い。
その時のエスカーションの市内コースは、今日では、世界遺産に登録されている都心部の歴史地区をはじめ、トルコの黒海沿岸のリゾート地域に案内された。

■1981年第19回カナダのバンクーバ

 北村信正氏がIFLA 副会長(東地区担当)へ

筆者は、1978年から1980年にかけて、アメリカ、カナダの大学の造園教育の実態調査の際、カナダではカルガリー大学を拠点にブリティッシュ・コロンビア大学、アルバータ大学、トロント大学、モントリオール大学、ケベック大学などの造園関係やルーラル ランドスケープについてのカリキュラムと具体的な教育方法など見聞させて頂いた。

そのような経緯もあり、カナダ大会は知り合いも多く参加していた。テーマは、フロンティアランドスケープで、日本の造園会も急激な都市化を受け大都市に人口が集中し、居住環境の悪化が目立ち、ランドスケープ関係の高等専門教育の充実が叫ばれていた頃である。

既にASLAのメンバーの造園教育を受けて、コンサルタントをやっている方も多く参加していた。日本国内でも1980年代から造園に関わる設計計画事務所や、造園施工関連の会社も増加した時代でもあった。特にバンクーバーでの会議もさることながら、ブリテッシュ・コロンビア大学内にある新渡戸庭園はじめ、市域内の居住地の造園も、緑の街並景観づくりそして大規模公園の管理運営もきちんとされていた。それに多くの自然公園も案内された。この大会では、実りの多いエスカーションであった。

続く第20回~23回まで、キャンベラ(1982年)、ミュンヘン(1983年)、ブダペスト(1984年)、東京・神戸(1985年)と続き毎回何らかの形で参加してきた。

それも『JILA』の理事だったことから北村信正氏、小林治人氏と御一緒に参加した。

この中でも、世話好付きのIFLA 副会長だった北村氏の印象が浮かぶ。

とにかく学会メンバーもさることながら、国内の造園事業の拡大と合わせて、官庁、業界関係者多数の参加を得たことは、日本の造園界のレベルアップにつながったと思う。

(ミュンヘン大会1983年)
(ミュンヘン大会1983年)
(ミュンヘン大会左から2人目北村5人目近藤)
(ミュンヘン大会左から2人目北村5人目近藤)

東京・神戸の大会が盛大に行われ参加者、参加国も増え、それにかかった経費も莫大なものとなったが無事に終了した。次に第24回はメキシコで開催となっていたが、開催地が大地震見舞われ開催不可能となってしまった。

1986年は急遽理事会をジャマイカで開催することになり小林治人氏に同行して、理事会に出席した。

その後、第24回パリ(1987年)の理事会で小林治人氏が、第1副会長となった。このあたりでASLAメンバーに異変が起きていた。つまり本部の経理関係がはっきりしないことの指摘があった。したがってそれを乗り越えるのは日本の小林氏しかいないということでもあったのか、会議があるたびにヨーロッパ勢と周辺国とのヘッド争いが絶えないようにも見えた。

(1986年 IFLA理事会ジャマイカ)
(1986年 IFLA理事会ジャマイカ)

一方国内においては、職能集団としての参加はともかく、学術会議の1セクションにするには、内容的に無理があるとの指摘があり、完結した職能集団として位置付ける方向に進み、日本の窓口は『JAPAN IFLA』が、会長は小林治人氏がその任にあたる事となった。

筆者は、ボストン(1988年)、マニラ(1989年)、ベルゲン(1990年)と『JILA』の立場で参加した。内容については省略するが、それぞれの開催国で懸命な準備により成果があげられた。パリやベルゲンも大変楽しい内容であった。

アジア地域での記憶はマニラ(1989年)、慶州(1992年)とバリ(1998年)で開催された時に参加、これらの会議への参加で、現在はアジア地域の世界遺産とランドスケープの調査活動に役立っている。

また1992年のアジア地区の大会を埼玉県、越谷市、沼田市で開催し、その実行委員長としてお手伝をした。

(マニラ大会1989年)
(マニラ大会1989年)
(マニラにて)
(マニラにて)

(ケープタウン大会1993年 半田・田畑(とし子)
(ケープタウン大会1993年 半田・田畑(とし子)

その後1998年以降については杉尾伸太郎氏の「イフラジャパンの将来 その歴史から見た展望」に詳しい。

とにかくしばらくこの会議から脱会したことはすでに小林、杉尾両氏から聞いていた。その後日常業務に追われていて参加はできなかったが、IFLA Japan会長 高野文彰氏らと、2009年にアジア大会がインチョンであり久し振りに参加した。テーマも時宜を得た内容であって発表者も公募してやっているなど、学術研究的な発表もあった。

特別な緊急会議の1つに「ユネスコの世界遺産登録について」である。

IFLA はユネスコの諮問を受け、歴史庭園、自然文化的景観についての、専門調査及び審査を実施する機関として位置付けられていた。しかし最近ではこの関係が弱体しているのではないかと、韓国、インド、中国からの強い意見が提出され、その対応について論議され有意義であった。

■おわりに

以上、思いつくまま、私のIFLAとの50年間の関わりの1部を取り上げてみた。

今後、国際会議を日本でやるにしても、バブル時代のようには行かないことは周知で、地球市民にとって近未来に解決すべき多くのテーマの中で、具体な計画課題を整理し、今後各国の造園技術者の進むべき方向性を明らかにすることを、日本の造園家及び関係する諸団体が一丸となって進めることが必要ではないだろうか?

国際的には、これまでのようなIFLAというより、今後日本の職能団体としてはもちろんのこと「国際造園家集団としての役割」を、原点に戻って考えることも重要であるし、デザインワークの交流会だけでは済まされない造園界に対して、今日の居住環境から宇宙環境にかかわる関係諸問題をどのように問題整理し、課題を設定するかが緊急な仕事ではないだろうか。

細分化された科学教育や職種を育てるのも大事ではあるが、新たな仕込みとそれを盛る器がどのようであったら良いかを考える時期でもあり、既に、様々な地域で、若い造園家中心にその方向のワークショップが開かれていることは、喜ばしいことである。

田畑貞壽 Sadatoshi Tabata

 

現千葉大学名誉教授 上野学園大学特任教授 
(公財)日本自然保護協会顧問
造園学・景相生態学・環境計画学・工学博士⁽東京大学)

<略歴>

1991~93 社団法人 日本造園学会会長 
1998~2000 農村計画学会副会長 
1986~2004 UNESCO Moenjodaro保存諮問委員会委員 
IFLA名誉会員(第9,10,14,15,19~27,29,30,41,47回への参加) 
1998~世界不動自然・文化遺産研究会会長 
<IFLA関係論文> 
海浜地域の保全管理に諸問題、造園雑誌40-2(1976年) 
諸外国における造園教育の実態、造園雑誌42-4(1979年)