IFLA と私

名誉会員 近藤公夫

IFLA との出会い

昭和37年 半世紀と少し前、パキスタン政府の招聘を受け新首都イスラマバードの首都開発庁の計画顧問だった時である。同庁総裁から「イギリスの造園家Mr. Lovejoyが来庁したので紹介する」と会議室で名刺を交換した時、彼から”IFLA delegate”と名乗られてから、IFLAの存在が私の身近なものと成り始めた。

無論、大学院生の頃からイフラの名前は知っていたが、それは大学教授級の大御所など、海外に名の通った造園家の交流する”高嶺の花”の場、としか思えなかった。加えて当時は1ドル=360円(大学院修了の助手は月給38ドル)の時代、日本の外貨保有料は世界20位にも入らず、IFLAの為にドルを支出する等、夢の夢。先生から戦前留学の写真を見せられ溜め息をつくのが精一杯の頃である。

2年後、海外渡航が自由化され、IFLAの世界大会が日本で開催された。
本来帰国したての新人に出番があって良かったタイミングであったが、私は前年にまさかのダンプカー事故にあい入院中。Mr. Lovejoyの見舞いは頂いたが、折しも奈良女子大へ転出の話しに追われるなど、IFLA との縁は薄いままだった。

昭和47年頃、京大の当時に指導した上杉君からカルフォルニアの大学へ出張講義の話しを貰い、その旅先でASLAや IFLAで活躍する先生方と名刺を交換し酒席での交流する機会があった。
自身は、講義自体は中学時代に叩き込まれた英文法中心の勉強で何とかなる(質問、討議は何ともならない)と言う自信がついて、JICAからパキスタン ラホールへ風致計画指導へ出向したり、ドイツ ハンブルグの大学から植物園日本庭園の作庭に招請される(ドイツでは大学教授にProf. Kondohの英語はvery wellと尻がこそばゆい話。)など、以後30年海外へ出ない年はない程の国際派になる。

IFLA世界大会日本開催へ

帰国して佐藤昌さんの会議で英語での一席をつとめた辺りからJILAの国際代表要員となった。

当時の課題は『昭和60年にIFLAの世界大会を日本造園学会60周年記念として招請しよう!』であった。加えて私が公園緑地と都市環境などで関係していた神戸市も意欲的という状況。
そんな折、IFLA世界大会がミュンヘンで開催。当時IFLA代表の北村信正さんからドイツへ行かないかと誘われ、なんとか飛行機賃を工面して大会の理事会に出席する事に。

「一流のホテルなのに空調がない」と相部屋の田畑君とこぼしながらスピーチを行う理事会当日を迎えた。朝型の小生、相棒を起こしてはまずい、とWCに入って最後のスピーチ練習を行い、いざ!

理事会でのスピーチは、日本から持参の英文冊子を配布したのもあり及第したと思うが、テキストにないジョークが受けていたのか、終わると方々から拍手も頂けた。身長5尺の日本人が汗を流しての熱演に「御苦労様」言う訳だったのか。それをカバーして田代君のP.Rもあったが、誰より心配したのは北村信正夫妻だったと思う。

肩の荷を降ろした夜は小林君達と本場で味わうミュンヘンビール、理事会と総会の合間には吉川さんとノイシュバンシュタインの見学等、良き時代のエピソードとは言え、その後の正式に日本の開催が決定してからの手配、奈良県・滋賀県の風致審議会等の縁も生かし関西の体制作りには苦労した。

また、日本のローカルランドスケープを発信しようと福井県が文化財課などにも声をかけ京都・滋賀・福井そして北陸へツアーの企画。

結局神戸がIFLA誘致のテーマとなった。港湾整備と背山開発のテクニカルツアーから離宮公園のレセプションまで参加者に好評を得たが、大会成功を確信できたのは、日が暮れ、噴水がライトアップされた公園で海外からのヤング達が男女を問わず焼き鳥の串をかじりながら”Wonderful”と歓声をあげた時だった。一方、北陸の永平寺で精進料理の昼食コンニャクもユバも頭の中の和英辞典に入力できていなかった時は冷や汗をかいた。 それでも一乗谷の朝倉氏館跡では誰かが口にした、”Japanese Pompeii”の言葉に感涙。関西のセクレタリーとしてツアーガイドまで走り回ったアルバイトへのプレゼントであった。

次回を担当するメキシコ代表が「後を継ぐのはしんどい」と言われるなど「Most Successful」と言われた日々から30年が近い。

IFLAと私

その後IFLAとの関わりは、パリの理事会や総会に小林君、田畑君と出席して加盟問題の曲折があり、アテネのEurope Congress へ単身出席したり、IFLA-IOMOSに代表出席してイタリア リヴィエラでも安いホテルがあると感心したり、この分野に生きて来た人生を豊かにする数々の曲折を経験した。何十回かの海外出向に大学教師の安月給から財布の底をはたいたのも、それも惜しくない学習がIFLAのなかにあった。

それを支えたのが戦中戦後のハングリーな体験にあったとすれば、

Challenge Mind こそ、今の我々に必要では!と考える。 「そんな根性論が結論なのか」と言われそうだが、今、日本をとりまくアジアの国々が発展しつつある時、それを支えているのが掛け値なしの根性だとしたら我々が挑戦の舞台としてIFLAを考えるのは今も将来も意味を持つのではないだろうか。

IFLA:国際造園家連盟
ASLA:American Society of Landscape Architects
JICA:独立行政法人国際協力機構
JILA:公益社団法人 日本造園学会
ICOMOS:国際記念物遺跡会議

近藤公夫 Kimio Kondo

1929年生まれ。 1953年京都大学農学部林学科卒業。
1958年同大学大学院農学研究科造園専攻博士課程修了。
同大助手を経て、1965年奈良女子大学助教授、1974年教授を歴任。
退官後、神戸芸術大学教授を経て、

現在 奈良女子大学名誉教授。
奈良県古都風致審議会会長、 神戸市公園緑地審議会会長などを務める。