IFLA国際大会での経験 ―気分だけでも国際人―

(株)ヘッズ 大塚守康

 前提として、私の英語力は20パーセント、残りの30パーセントは会話の前後や雰囲気からの推測、そして50パーセントは度胸と分かった振り、こんな私が2001年から2010年までIFLA国際大会などを経験して、気分だけは国際人になれたような気になりました。

 

 始まりは2001年6月のシンガポール大会。当時ランドスケープコンサルタンツ協会の会長とIFLAジャパンの会長は杉尾さんでしたが、コンサル協で彼の補佐係を務めていた関係で、代理出席をすることになりました。

 本会議場は広々とした円卓で、このために新調したという参加各国の旗が机上に並べられ、まさに国際会議といった雰囲気でした。アライアンスからIFLAに再統合されて始めての国際会議であったので、参加国も多かったのではないかと思います。議題の中で特に注目されたのは、中国本土の参加表明の扱い方でした。それというのも既に台湾が中国名を使って加盟国となっていて、国名は一団体しか使えないからです。その場で私はたどたどしい英語で、隣人から見た台湾と中国本土のデリケートな関係を説明しました。今の中国の隆盛からは考え難い状況です。同時に開催されたアジアパシフィックリージョナル大会(APR)では、当時存在感の薄かったマレーシアやベトナムのランドスケープ教育の支援が主な議題でした。

 会議に続くレセプションなどを通して、APR会長であったダイアン マンジーさんや、オーストラリアのジェームズ ハイターさん等と親しくなれたのは大きな収穫でした。また、レセプション以後のサプライズとして、シンガポール名物の自転車型人力車を何十台も連ねて、参加者全員で街中を練りまわしたのも楽しい思い出です。

 

 2002年7月のマレーシア大会は失敗の連続でした。当初予約しておいたホテルのアクシデントで到着後にホテルを変えたのですが、APR役員の全員がその晩に集まったことから会議を始めてしまったのです。日本から参加した高野さんが連絡を取っていてくれたのですが、ホテルを変えたために連絡が取れず、彼が急遽会議に参加してくれました。また、レセプションに遅れて参加したところ、アルコールの出ないイスラム圏のレセプションはすぐに終わってしまい、ほとんどの方とお会いしないまま帰国しました。

 IFLAの大会ではありませんが、2002年10月北京で開催された日中韓ランドスケープ交流会では、中国本土の加盟に精力的に動いていたダイアン マンジーさんに会うことができました。

 2003年5月はカナダのバンフ大会です。とても良い所で、会場もバンフ芸術大学の森に囲まれた山小屋ホテルのようなこじんまりとした場所で、大変アットホームな大会でした。参加者も意外に少なく、北米と中南米の国がほとんどでした。新会長になられたコロンビアのマーサ フェジャルドさんはとても陽気な方で、レセプション会場のテーブルでダンスを披露してくれました。私は北京でお会いしたソウルのアン先生や、以前オレゴンのASLA大会で親しくしてくれたポール モリスさんと久しぶりで会うことができました。

 

 2009年9月はソウル郊外のインチョン大会です。それまでにオランダ大会などがあったのですが、親泊さんに行っていただきました。大会はソングド地区という新空港に併設された新開地で行われましたが、シンガポールやマレーシア、次の中国蘇州などみな新開発地が会場に選ばれています。この大会で目立ったことはアジアの学生達の進出で、多くの作品が展示され、彼らの活躍の目覚しさが感じられました。

 

 2010年5月は中国蘇州郊外における世界大会です。上海万博と同時開催で、大いににぎわっていました。ここでも北京大学のシャオミン先生率いる学生達の活躍が目覚しく、学生コンペが盛大に行われていました。残念ながら日本からの参加はゼロでした。

 

 思い起こせば2001年のシンガポール大会ではAPRにおいて、ニュージーランドやオーストラリアなどが主導的でしたが、10年の間に勢力はすっかりアジア圏に移ったように思えます。そこにおいて日本がどのような存在感を示していくのか、IFLAジャパンの大きな課題であると切に感じます。

 冒頭に書きましたように、この程度の私でも思い切り良く世界大会に参加していけば、多くの方々と顔見知りになれ、友達もできます。遊びに行く感覚でIFLAの大会に出席されることを是非お薦めいたします。

 

大塚 守康 Otsuka Moriyasu