イフラ東京大会

樋渡 達也

私とイフラとのお付き合いは1964年の東京大会からであるからもう半世紀近くなる。
1961年のスペイン大会で東京大会の開催が承認されてから、日本の関係者の盛り上がりは大変なものであった。1954年のウイーン大会に佐藤昌先生がアジアから初めて参加されて以来、56年のチューリッヒ、58年のワシントン、60年のアムステルダムそして62年のイスラエルと、各大会に代表を送り込んでいたわが国としては、欧米側の日本庭園にたいする興味が非常に高いことをすでに知っており、かつそれらの伝統を踏まえた現代の日本の造園家がいかなる活躍をしているかを見たいとする強い希望も知っていたのであるから、東京大会をどのような大会にするかの議論が沸騰したのは当然であろう。
まして東京大会のテーマは“人間生活における造園”という当時の今日的話題でもあったから、関係者に一層の熱がこもるのはもっともであった。

 

実は東京大会の開催まで、私はイフラが佐藤先生が出席されたウイーン大会以後、急速に変化していたのを知らなかった。佐藤先生が54年の帰国後、学会誌に発表された帰国談にある“国際会議というけれどいかめしいものではなく、テーマに対して講演者が発表し、簡単な質疑があって終わるのが普通で、夫人同伴も多く、開催国の造園を見ること、視察ツアーが主眼のようにおもわれる”という状況がその後も続いていると思っていたのである。しかし、学会のイフラ担当理事金子九郎先生の目つきは真剣そのものでだいぶ違っていた。また、62年のイスラエル大会に出席された佐藤先生の帰国報告が前回とは全く違っていたのも、読み直してはじめて発見したのである。なかでも帰国報告の最後にある“新興イスラエル人の偉大さ(或いは恐ろしさか)は飛行機の中で長く鼓動していた”とあるのをみて、新しい国々の大きなウネリがイフラに起こりつつあること、東京大会でも新たな変化が起こるのではと気付きはじめたのである。

金子先生は、当時の先生の文章を改めて読みかえしてみると、イスラエル大会でベニス大学のB・ツエヴィ教授が講演した「造園における現代の次元」の内容をかなり意識されていたようである。教授の言う“タウンスケープとランドスケープが溶け合った「都市地域」の計画という冒険が生まれつつある”。“われわれの文化は危機にあり、誰かがそれを導かねばならない。それは都市計画家か建築家か造園家か”。“われわれはシエーンベルクの交響楽のような偉大で燦然たる職業を必要とする”という主張は現在読んでも刺激的である。
金子先生は当時書かれた論説で“GardenからLandscapeの時代へ”と書かれているが、まさにそのような心境で会議準備に取り組まれたのではと思う。ともあれ、日本の造園人の総力をあげて、東京大会は準備され、開催された。


昭和40年には造園学会から東京大会の報告書が出されている。そこで事務局長である金子先生は“(大会は)注目すべき成果を収めた。正確には収めつつある”とふくみのある表現で総括している。一般のメディアからは完全に無視され、(オリンピック直前で忙しかったにせよ)都市計画や建築の雑誌でもほとんど無視された東京大会の事務局長としての無念さが報告書にはある。また、報告書をみると運営上でもいろいろな問題があったようである。大会の慣例として一般勧告が出されたのだが、会場から“いまさらこのような事項を評決する意義があるのか。もっと現在にみあった内容を検討すべきではないか”という意見が出され、緊張する場面があったという。しかし、今考えれば、当時の東京の環境では難しかったといえる。

金子先生は報告書で次のような述懐をされている。“アジアで初めての大会。物理的に全く違う条件下にあるランドスケープの人々が集まったが、彼らはおおいに戸惑った。人間環境のあらゆるマイナス現象を、ここ日本で、これだけの規模で見せられようとは、誰も想像していなかったのではないか”。この表現には解説を加える必要があろう。大会は5月に開催されている。オリンピックは10月10日からであるから東海道新幹線はまだ動いていない。オリンピック施設はすべて突貫工事の最中であり、東京はどこもかしこも工事中であった。

都市はとみれば、区部所帯の45%は木賃住宅であり、自動車の排気ガス公害は最高潮に達していた。水道事情の悪化から一日15時間の時間給水にまで追い込まれていた。一人当たり公園面積はわずか1.5㎡であり駒沢公園は工事中である。このような東京を見せられたとき、彼らが想像してきた日本との格差は極めて大きいものだったろう。ようやく京都へ移動し(新幹線がないから大阪まで飛行機である)やっと落ち着いたというのが本音であろう。このような状態で現代のためのホットな勧告を書けといわれても無理だったに違いない。

金子先生は、「この大会でイフラは質的なひとつの飛躍をしたと信じたい」と書かれている。この金子報告のタイトルが“日本大会はイフラに何を与えたか”であるのは先生の願いでもあったのであろう。東京大会は、関係者それぞれにさまざまな想いをのこして終了した。

樋渡 達也 Tatsuya Hiwatari

1931年生まれ。 1954年千葉大学園芸学部造園学科卒業。
東京都勤務を経て、(財)東京フロンティア協会 審議役
(財)東京都公園協会 常任理事などを務める。